19世紀後半、中国は大きな動揺に直面していました。西洋列強が「開国」を要求し、中国の伝統的な秩序は崩壊寸前でした。この時代の激動の中、1899年から1901年にかけて勃発した義和団の乱(Boxer Rebellion)は、清朝政府と西欧諸国との間で激しい対立を引き起こしました。イギリスもまた、この事件に深く関与し、その後の中国の運命を大きく左右することになります。
イギリスの介入:帝国主義と「文明化」の使命
イギリスは19世紀以来、中国との貿易を求めて積極的に活動していました。アヘン戦争(1839-1842年)で勝利したイギリスは、南京条約を締結し、香港島を獲得しました。その後も、イギリスは様々な条約を通じて、中国の港を開放させ、貿易特権を獲得していきました。
義和団の乱が勃発すると、イギリスは清朝政府に対する圧力強化を図りました。義和団は、西洋列強の侵略に抵抗する民衆運動であり、キリスト教 missionaries を攻撃するなど、西洋文化への反発を示していました。イギリスは、義和団を「蛮族」とみなして、武力鎮圧を決断しました。
八ヶ国連合軍:共同で清朝を屈服させる
義和団の乱に対処するため、イギリスはドイツ、フランス、ロシア、日本、アメリカ合衆国、イタリア、オーストリア・ハンガリー帝国など、他の西欧列強と手を組み、八ヶ国連合軍を結成しました。この連合軍は、1900年6月に北京に進撃し、義和団を鎮圧すると共に、清朝政府に厳しい条件を突きつけました。
「北京議定書」:中国の屈辱と西欧列強の優位
1901年に締結された「北京議定書」は、清朝政府に対して、多額の賠償金を支払うことを義務付けるとともに、外国の宣教師や商人に対する保護を強化しました。また、中国は、外国軍隊が駐屯できる権利を認めさせられました。この議定書によって、清朝の主権は著しく削られ、中国は事実上、西欧列強の支配下に置かれることになりました。
トーマス・エドワード・ローエル:義和団の乱におけるイギリスの役割を担った人物
義和団の乱におけるイギリスの対応には、多くの歴史家や学者から議論がなされています。特に、イギリスの外交政策に対する批判は根強く、中国への侵略行為と見られることも少なくありません。しかし、イギリス側の視点からは、清朝政府の腐敗と無能さを指摘し、西洋文明を中国に導入する必要性があったという主張もあります。
この複雑な歴史的背景において、トーマス・エドワード・ローエル(Thomas Edward Rawlins)という人物が注目されます。ローエルは、1890年代にイギリス外交官として北京に赴任し、義和団の乱発生時、イギリス大使館の参事官を務めていました。彼は、義和団の反西洋運動を厳しく批判し、武力鎮圧を主張しました。
年 | 行動 | 結果 |
---|---|---|
1897 | ローエル、北京に赴任 | 清朝の腐敗と無能を目の当たりにする |
1899 | 義和団の乱勃発 | ローエル、武力鎮圧を主張 |
1900 | 八ヶ国連合軍結成 | ローエル、イギリス代表として参加 |
ローエルは、義和団の乱におけるイギリスの政策決定に大きな影響を与えた人物であり、彼の考え方は、イギリスの中国政策を理解する上で重要な鍵となります。
歴史的評価:ローエルと義和団の乱
ローエルの行動は、今日の視点から見ると、帝国主義的な色彩が強く、中国の人々に対する差別意識を感じさせます。しかし、当時の国際情勢を考慮すると、彼の行動は、イギリス政府の立場を反映していたと言えるでしょう。西欧列強は、19世紀に世界各地で植民地を獲得し、その支配力を拡大させていました。中国もまた、その例外ではありませんでした。
義和団の乱は、清朝が衰退していく中で、中国社会における不満と不安が爆発した結果と言えます。西洋列強の侵略に対する反発、そして、伝統的な価値観を守るための民衆の抵抗が、義和団の乱を発生させた要因と考えられています。ローエルは、この複雑な状況下で、イギリスの利益を追求し、中国への支配を強化しようとしました。彼の行動は、歴史上様々な解釈が存在しますが、当時の国際情勢と帝国主義の波に飲み込まれた、ある外交官の姿を垣間見せてくれます。